ふるさとの歴史 -洪水の災禍に学ぶ-
特別養護老人ホームみずほの里第三者委員(元志多見公民館館長) 古峰孝様
四季折々の自然の変化とその恵みは、私たちの日々の生活を支えてくれています。そしてその自然の恵みには、さまざまな豊かなエネルギーを蓄え備えており、私たちは計り知れない恩恵を授かっています。
しかし、そのエネルギーは、時として刃を向いて地震や洪水となって襲いかかってきます。地震については、東日本大震災や耳新しい能登半島地震があります。その恐怖については周知のことと思います。
ここでは、的を絞って志多見地域(旧志多見村)を中心に、水の恐怖に晒された過去の洪水の歴史を紐解き、その実態に目を向け、回顧し、洪水への認識を深めていきたいと思います。
- 志多見地域の災害と対策
寛永四年(1628年)の富士山、天明三年(1783年)の浅間山それぞれの大噴火では、大量の降灰を被り豊作物をはじめ甚大な被害を受けました。
江戸幕府は元和偃武(1615年)以来治水墾田事業にあたり、旧利根川(古利根川・会の川)を上川俣(羽生市)で遮断し、東流させました。これが利根川の東遷の始まりです。しかし、このことは志多見地域には大変なことでした。農地は枯渇して水源がなくなり耕作が不能となりました。村民の声を耳にした時の羽生領代官大河内金兵衛久綱は旧古利根川(会の川)を生かして、長さ550m、幅33mの溜井(現串作)をつくり取入口を設け、新たに用水堀四千間(約7300m)を開さくしました。これを「金兵衛堀」といいます。このことを契機に新田開発が東方(埼葛)まで進み、農民の生活を潤すことになったのです。 - 志多見地域の洪水史
志多見村では、明治四十三年に大洪水があり甚大な被害を受けていますが、それ以前にも数多くの洪水が残されている記録から読み取ることができます。寛永元年(1624年)から明治二十三年(1890年)まで266年間に、詳細な内容はすべて定かではありませんが、13回の洪水が発生しています。
この中で特筆すべき洪水を上げてみます。
天明六年(1789年)に発生した大洪水では、観音寺裏の串作堤が長さ五間(9m)にわたって切れ(決壊)さらに十五間(27m)に拡大し破堤し同時に阿良川堤も八間(15m)決壊しました。全村の大半が泥水に覆われたといわれています。
実はこの水害発生前天明三年(1783年)の浅間山大噴火により利根川をはじめ大小河川において降灰による河床上昇があったため各地で氾濫が発生しました。志多見村でも大量の降灰があったとのことです。
その当時、治水対策として築堤することが各地で行われています。阿良川堤も前述した大河内金兵衛の提言により築堤したとの史実がありますが、串作堤については明らかでないものの阿良川堤との関連性が考えられます。なお阿良川堤は昭和期まで現存していましたが土地改良整備事業に伴い撤去されています。
次に、安政六年(1858年)の水害では利根川北河原堤(行田市)で百八十間(324m)、荒川堤(熊谷市久下)で二百間(360m)それぞれ決壊し、双方の濁流が村全体に押し寄せ、家屋住居のみならず田畑が冠水し大損害を受けております。
また、明治二十三年(1890年)には北埼玉郡須加村下中条(現利根大堰地先右岸)の利根川堤では五十九間(106m)決壊し、志多見村からは最も近い地点となります。
これまでの洪水発生の経緯から、志多見村では利根川、荒川それぞれの河川の影響を受けていたことが理解できます。
明治四十三年(1910年)の洪水志多見地域(旧志多見村)では、明治四十三年八月十一日に稀に見る大水害に遭遇します。当時の様子を洪水史(志多見村の歩み)から一部抜粋してみたいと思います。
「明治四十三年七月十一日が土用の入りで八月九日が土用明け、この間晴天僅か九日他は降雨と曇天の連続となり、十日昼夜暴風雨となった。利根川と荒川はもちろんのこと諸川一度に増水し、十一日未明には北河原村中条堤(写真①)が決壊、荒川堤も熊谷久下(写真②)にて破堤し両河水合流して忍領(行田市)を押通して午前九時には阿良川堤に肉迫した。村民警鐘乱打急を告げ、水防のため各自空俵二俵ずつ抱え現場に馳せたるも時すでに遅く総越し(濁流が堤を越える)となる。危機切迫漏水破堤防御の手段つき、水防夫も家財片付けの不安から、一時放棄の止むなきに至った。」とあります。
その後、阿良川堤は串作地内を含めて六ケ所において破堤し、その長さは総じて百五十間(270m)に達し、地域の重要な防水の役目を果たさなかったとのことです。
阿良川天神社前には当時の洪水記念碑が建立されています。
なお、全村の殆どが浸水されましたが、記録によりますと上原地区(国道旧125線沿い)は水害には至らなかったとのことです。不肖私の自宅では当時の住居の柱に水害の標示跡が畳上100cmのところにありましたが、住居によりその水位はさまざまとのことです。稲作については壊滅的な被害を受けたとのことです。
この洪水は,利根川と荒川そして各河川で決壊や総越となり、埼玉県内の平野部全域を浸水させ東京の下町にも甚大な被害をもたらしました。しかもその規模は昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風時の洪水を上回っていたと推定されます。測定期間に差はありますが、降水量で秩父において前者は1216mm、後者は611mmの記録があります。いずれも歴史に残る大洪水であったことは否めません。
私たちは、こうした先人が体験した大洪水を単に過去の出来事としてとどめることなく、これからこのことをどう生かして日々の生活に結び付けていくかということが大切になります。
加須市では、令和六年度版「洪水から自分を、家族を、地球を守るために、自分から情報を入手し、自らの判断でみんなで早めに避難しましょう」との呼びかけのもと「洪水ハザードマップ」を地震ハザードマップとともに刊行しました。常時手元に置き災害への備えにしておくべき貴重な刊行資料です。
参考文献
加須市史(加須市)
志多見村の歩み(志多見公民館)
埼玉県の気象百年(熊谷気象台)
決壊の記録は忘れません(利根川上流河川事務所)
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